表現とは何か?作るとは何か?人間の活動のどこまでが表現活動なのか?
最近、表現とは何かを考えることが多い。
世の中で表現、クリエイティブというと、
デザイナーやミュージシャンのような人間のする行為をさすことが多い。
しかし、最終的には、一般人も含めておよそアウトプットされるものはすべて
表現行動ではないかという考えに行き着いた。
まずは表現活動に含まれる行動、範囲を考えてみる。
歌をうたう、楽器を弾く、ダンスを踊る、などの音楽活動は
一般的にいっても表現活動だろう。
イラストなどの行為もそうだ。
では執筆はどうか。
もちろん表現活動である。そう、このブログも含めて。
料理はどうか。日々の食事はそんなことを考えている余裕はないだろうが、
これも立派な表現だ。
人は表現したい生き物だ。自分が行動した活動が無為にすぎていくことは耐えられない。
何かを残したい。その思いが人々を表現活動にいざなう。
そして表現すると必ず心に発生するのが
それに対するフィードバックを求める気持ちだ。
表現したからには、必ずなにか反応がほしいものだ。
ブログを書いて反応があるとうれしいのも同じことだ。
料理が一般の表現活動と違うと思うのは、
誰かのためにつくる料理はすでにその時点でフィードバックが
ある程度約束されていることだろう。
家族のために作る料理は、相手がおいしいといってくれればそこで作った側も満たされる。
作りっぱなし、表現しっぱなしにはならない。
それに対して、一般の表現活動はそうはいかない。
なぜなら誰に対して作っているか本人にもわかっていない表現が
ほとんどだったりするからだ。
プロは違う。それを見たり聴いてもらうことで楽しんでくれる客がいる。
しかしアマチュアの行動は相手がいない。だからこそ自由にできるがそれでは物足りない。
反応がないからだ。
ただし、もともと相手のタメに作っていないから無理に見せても自分が満足するような
反応は得られない。
アマチュアはずっとこのジレンマを抱えながら作品を作っていくのだろう。
そして、そのジレンマを少しでも緩和するためには
やはり誰かに評価されたり反応、フィードバックを得ることだろう。
そのためには誰にも見られないところで表現していてもだめで、
たとえばコンテストなど見られる場に参加しなくてはならない。
それをしないのであれば、アマチュアは・・・(上に戻る)
「ザ・サークル」はすでに起こっている
クーリエジャポン2月号に、「ザ・サークル」という小説が掲載されていた。
もともとはNYタイムズマガジンに抄録されていた小説だそう。
※以下ネタばれありで書くのでご注意を。
舞台はFacebookなどSNSでプライベートをシェアすることが
当たり前の現代(あるいは近未来)のとあるSNS運営会社。
主人公の女性はその会社の新入社員で仕事は勤勉だが、
就業時間後のパーティーや休日のイベントに参加しなかったところ、
そのことを人事部に問い詰められる。
理由は家族の容態が悪かったためであり、主人公の女性に非はまったくないのだが、
それでも人事部は、なぜそれを社内の誰にもいわなかったのか、
なぜ社内グループにそのことをシェアしたり助けを求めなかったのか、主人公を詰問する。
さらにはそれ以外にはカヤックをしていたという単なる趣味のことでさえ
それをシェアしなかったことを失態であるかのように驚いてみせる。
この描かれ方により、読者は主人公側に感情移入し、
この会社を気持ち悪く感じるわけだが、
なんのことはない、この会社はSNSが浸透した現代の会社や社会そのものなのだ。
振り返ると自分も、自分が実際にしたり、しようとする行動そのものよりも
それをシェアすることでそのことがSNS内で他人にどう評価されるか、
どういいねされるかという承認欲求の満たされかたばかり考えていたりする。
元アップルの松井博氏は紙面のレビューで
自分を盛ることに夢中な「意識高い系」の人やソーシャルメディアにハマりまくっている人たちにとってはすでに起きている現実かもしれません。それは自分が満足するかどうかよりも自分がどう見られているかに一喜一憂し、すべてを全世界に晒し続ける日常です。
と語っているが、まさに同感だ。
ただ、承認欲求は人間の根源的欲求であり、
ネットによってその充足ができる道が人々にひらかれてしまった以上、
そうした心理は、もう避けようもなく、
現代人はこれからずっとその病を抱え続けていかなければならないのだと思う。
もちろんそれを自制することや、症状を自覚することが
こういった小説によって少しは出来るのかもしれないが。
またこの小説で面白かったのは
この小説の会社が社員の仕事ぶりだけでなく、
勤務外や休日に社員がどれだけ会社のパーティーやグループに
リアルとSNSで参加、投稿したかを
パーティランクという評価基準によってランクづけしていたことだ。
主人公はこのあと人事部とのやりとりで洗脳され、
小説後半では積極的に会社のSNSに投稿し
このパーティランクをあげることに邁進するようになる。
そういう意味で、この小説は会社による会社コミュニティへの強要という
ブラック企業的な面と、SNSで個人情報のOPEN性が加速していることの
二つの側面を描いている。
というよりも、むしろSNSの浸透によって
リアルでブラックな企業がさらにバーチャルでも参加を強要するようになっていく
ということかもしれない。
筆者はこのブラック企業要素(会社によるコミュニティへの参加強要の要素)
を盛り込むことで、SNSでのシェアを求める社会を、わかりやすく企業に変換して
書いたのではないだろうか。
自分を盛ることに夢中なSNSにハマっている意識高い系の人間は必読の短編小説である。
※ちなみにこの小説の筆者のデイブ・エガースは
映画「かいじゅうたちのいるところ」の脚本をてがけた人物らしい。
処女作の「驚くべき天才の胸もはりさけんばかりの奮闘記」はピュリツァー賞候補。
ゲームは人生の役に立つか?それともゴミか?
ゲームばかりして少年時代を過ごしていたら、ゲームで飯が食えるようになったある男の話 - つきあたりを右に
はてブで人気となっていたブログ。
2014年2つ目の記事は、このブログを元ネタに
「ゲームは人生の役に立つか?それともゴミか?」というテーマでブログを書いてみる。
先に自分の意見の結論を書いておくと、
私も「ゲームは人生の役に立つ」派である。
冒頭のブログで、筆者が自分の人生では役に立ったという証拠を提示し、
自分は現職で少年時代に夢中になったアニメ、ゲーム、マンガ、どれもこれも「そればっかりに夢中じゃロクな大人になれない」と大人たちに言われてたものが自身の仕事で役に立っていますし、結果としてサービスのUXだとか、デザイン品質としてユーザーに提供する価値を出す努力を続けられています。
「何かが役に立たないムダなモノ」ではなく、「それを私の”何”の役に立てようか」という視点を持てるか という話です。よく「学校で習ったことなんて社会で役に立たないよ」って話する人いますけど、学校で得た芸術、デザインに関する知識や、そこでやってた実習で得た感性や経験は、プログラマーとして働いていた前職、前々職でも十分に役立てられました。
使いこなす気の無い道具は、そりゃ机の引き出しに閉まったまま「使わないし、使えない」ままになりますよ、ただし、それはその人にとってというだけの話。
(引用元)ゲームばかりして少年時代を過ごしていたら、ゲームで飯が食えるようになったある男の話 ~つきあたりを右に
で確かにその通りだよな、と思うわけだが、
それだとこのブログで引用して取り上げる意味がなくなってしまうので
もう少し掘り下げてみる。
さてどうするか。
「何かが役に立たないムダなモノ」ではなく、「それを私の”何”の役に立てようか」という視点を持てるか
特にこの部分に共感したわけが、ただ考えてみるとこのブログ筆者がゲームをしているときに
こういう視点をもてていたかというと、そうではないとは思う。
そういう視点を持って物事に取り組んだほうがもちろん
糧になりやすいが、おそらくその前のフェーズがあると思う。
まさに少年時代のゲームがそれだ。あるいは本や映画と置き換えてもいい。
少年時代はそういう視点を持っていないのが当たり前だが、
興味をもって夢中になって取り組んだことは
無意識に経験として蓄積され、役に立つ。
そうここでとりあげたゲーム筆者のように。
ゼログラビティ体感
建築と美術と音楽と 葉加瀬太郎の『クラシック音楽がもっと好きになる講座』を見て
2014年ブログ第一弾。これから毎日1記事
思ったこと、考えたことをジャンル問わず書いていく。
最初は「建築と美術と音楽と」について。
大晦日にテレビで「今でしょ!」の林修先生の「今やる!ハイスクール」特番が
やっており、葉加瀬太郎氏が講師をしていた。
- アーティスト: TVサントラ,小曽根真,溝口肇,葉加瀬太郎 with 西村由紀江,古澤巌,葉加瀬太郎,葉加瀬太郎 with 小松亮太&ディープ・フォレスト,葉加瀬太郎 with 小松亮太,葉加瀬太郎 with 姜建華,coba,柳家花緑
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